圧巻のミュシャの品揃え

ミュシャ専門画廊 ぎゃらりい自在堂へようこそ

 淡いパステルカラーで彩られた、優雅で宗教的ともいえる風貌をたたえた女性たち。たおやかに波打つ髪、明確な輪郭、ビザンチン風の円形、醸し出される神秘的な雰囲気、アール・ヌーボーの先駆者と称えられたミュシャの芸術は、百年を経た今日も人々を魅了してやみません。

 「芸術に新しいも古いもない。芸術とは永遠のものである。」

 これは、ミュシャが学び、後に教鞭をとった「アカデミー・コラロッシュ」の精神であり、彼の精神でもありました。永遠なる芸術の一端に触れるのが作家の仕事だといわれるならば、ミュシャもそれに触れたのではないでしょうか。  パリに新しい風を吹き込んだ彼の芸術は、ちょうど古謡が作者を知らずに人々の心にとけこんでいくように、国境を越え、世界に拡がっていきました。  字を書くようにデッサンをし、女性の美しさ、植物や生物にそそぐ繊細でしなやかな心遣い、日本文化の薫習をかいまみる気品あふれるミュシャの芸術はパリジャン達の羨望の中、ベル・エポックの寵児としてアメリカへ旅立つまで君臨したのでした。

 ミュシャのアトリエはパリの文化の中心で、大女優サラ・ベルナールは当然のこと、芸術家、哲学者、科学者などのあらゆる分野の著名人たちで賑わいました。世界初の映画上演会が有名なデュミエール兄弟によってこのアトリエで行われました。

 ロダン・ゴーギャンも親しくしていました。私が訪れたミュシャが晩年住んでいたプラハの家ではゴーギャンの弾いたリードオルガンや、ロダンから贈られた彫刻、それに日本の浮世絵まで観ることができ、パリ時代のミュシャのアトリエの雰囲気が彷彿と浮かび上がります。

 ミュシャはサンポリストの友人が多く、天文学者フラマリオンもアトリエを訪れ、霊媒の実験なども試みました。ミュシャの作品に秘められた神秘的な象徴主義のかげはここからきているのかも知れません。

 1939年7月14日、アルフォンス・マリア・ミュシャはパリ祭の日に人生で最も成功したパリ時代をいとおしむようにプラハでその生涯を終えました。「Je Vent Que Passe Emporte La Junesse」
 アール・ヌーボーの画家と呼ばれるのを好まなかったミュシャですが、世紀の傑作、ミュシャ芸術の真髄に触れていただき、一人でも多くの方々にご紹介して、ご観賞頂くための機会をより多く設けたいと思いMUCHA MUSEUMを開設致しました。

アルフォンス・ミュシャの生涯(1860年〜1939年)

1860年 7月24日チェコ南モラビア地方のイヴァンチッツェに誕生。
1871年 ブルノーの中学校に入学、聖ペテロ教会の聖歌隊員となる。
1873年 最初の公的な仕事、雑誌モテツトの表紙を描く。
1874年 聖歌隊を退団、中学を卒業、書記として働き、デッサンを学ぶ。
1879年 ウィーンに行き、舞台美術工房で働く、デッサン教室に通う。
1882年 リング劇場の焼失で、ウィーンを去りミクロフに移る。
1883年 最初のパトロン、クーエン・ベラン伯爵に会う。
1884年 伯爵の援助を受けて、ミュンヘンの美術アカデミーで学ぶ。
1888年 パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。
1889年 アカデミー・コラロシュに学ぶ、クーエン伯爵の援助を打ち切られる。
1891年 雑誌に挿絵を描く、ゴーギャン、ストリンドペリに出会う。
1892年 セニボス著「ドイツの歴史」の挿絵を描く、ポスター、カレンダーも制作。
1894年 サラ・ベルナール主演「ジスモンダ」のポスターを制作。大好評となる。
1895年 サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。
1896年 サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレック等と共に出品。
1897年 サロン・デ・サンにて個展。ラ・ブルユム誌ミュシャを特集。
1900年 パリ万国博覧会開催、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。
1901年 レジオン・ドヌール勲章受章。装飾資料集を刊行。
1904年 アメリカに招かれる。ニューヨーク、シカゴ、ボストンに行く。
1906年 マリア・シティロヴァとプラハで結婚。共にアメリカに渡る。
1909年 長女ヤロスラヴァ誕生。
1910年 祖国に帰り、プラハに住み、「スラブ叙事詩」の制作を開始する。
1915年 長男イージー誕生。
1918年 新貨幣や切手のデザインをする。
1931年 プラハの聖ヴィタ大聖堂のステンド・グラス制作。
1936年 パリの印象派美術館でミュシャ展開催。
1939年 7月14日、母国のプラハにて逝去、79歳。

19世紀終わりから20世紀初頭にかけての「古きヨーロッパ」を彷彿とさせる ミュシャの遺作は、アール・ヌーボーの華として、時代を超えて世界各国に おいて愛され続けている。